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Beast in the City(1/3)

<Act.1 Howling ―遠吠え―(1)>

 高層ビル群がひしめく街の空はいつも薄暗い。
 大地を枯渇させた異種族間の百年戦争――それによって巻き上げられた空中ごみが、終戦から50年という月日が経った今でも太陽光をさえぎっているのだとか。

 眠り知らずのダイバーシティには、ネオン看板の花が咲く。

 楽し気に行き交う人々と色とりどりに光る花の間をすり抜け、青白い顔をした一人の男がふらりと路地裏に身を潜めた。
 黒のシンプルなスーツを着て、片手にはビジネスバッグを持っている。
 仕事帰りのサラリーマンだ。
 正確にはサラリーヴァンピールだが。

 男は神経質そうな顔に脂汗を滲ませながら、鬱陶し気にネクタイを緩める。
 ――酷く喉が渇いた。
 吸血牙を隠すことも忘れ、飢餓症状に襲われた男は路地の暗がりを当てもなく彷徨さまよう。
 薬局で売っている血液タブレットは味気ないし、ブラッドワインで酔うこともできない。
 なぜなら、男はを知ってしまったから――。

 すると、反対側から誰かが歩いて来るのが見えた。
 足取りはおぼつかず、右に左へふらりと揺れる。
 起き上がり小法師のようにけして倒れないのは、酒に酔っている何よりの証拠だ。
 裏返しに羽織るカーキのミリタリーシャツに白いパーカー、ゆったりとしたカーゴパンツを合わせたスタイルから、年若い青年と予想する。鳶色とびいろの髪は後ろで短く結ばれていた。
 丸く優しい形をした目は据わり、意味のない言葉をつぶやいて千鳥足でこちらへ向かってくる。

 ほんのり漂うアルコールの香りと、健康的な肌の瑞々しい匂い。少女のような危うさすら感じる。
 血を欲した口内の唾液で溺れそうなヴァンピールは、もう辛抱ならなかった。

 ビジネスバックを道端に放り投げ、影に溶ける。
 そしてへべれけな青年の背後に音もなく姿を現すと、パーカーがたるむうなじ目掛けて大きく口を開いた――のだが。

「はい、現行犯」

 くるりと後ろを振り返った青年が、ヴァンピールの頬を両手で包んだ。
 戦火の末に世界の果てへ追いやられた森林のように澄んだ瞳が、男を真っ直ぐに見つめる。
 この街に住む者なら皆、木々の薫りや葉の擦れる音に郷愁を抱くものだ。
 男はその美しい瞳に魅入って、思わず時を忘れる。

 ――ゴキッ。

 気づくと、彼の視界は上下逆さになっていた。
 呆けるヴァンピールの顔を、青年が容赦なく時計回しに捻ったのだ。

「なっ……え゛?」
「最近街を騒がせてるヴァンピールは君だね? 生身の吸血は条例違反だよ」

 平衡感覚を失い地面へ倒れ込む男に背を向けた青年は、裏返しになったシャツを直しながら無線でどこかへ連絡を取る。どうやら悪戯いたずら好きなピクシー避けのアルコールコロンをまとい、酔ったふりをしていたらしい。
 胸ポケットには三重円に十字マークのワッペンが。それはダイバーシティの保安局と提携した民間警察会社のシンボルだった。

「ミラージュ、位置情報拾えてる?」
『マホロくん、お疲れ様! ばっちり拾えてるわよ。あと3分くらいで保安局が到着するわ』

 通信相手の女性は陽気な声で返事をした。

 地面にひれ伏す男は、一週間前から条例で禁じられた一般人への吸血行為を繰り返し、4人の死者を出している。
 保安局から提示された懸賞金は100万ルピ。青年の上半期ボーナスがさぞ潤うことだろう。
 ――だが、ここで大人しく捕まってやる義理もない。

 男はあごが夜空を仰ぐ不思議な身体をそっと起こし、未だ背を向けて通信を続ける青年の首へ噛みつこうとした。刑務所へ入る前に生き血をすすりたい、その一心で。

 すると、頭上を照らすネオンの薄らぼんやりとした光を何かが遮る。

「そいつはやめとけ、腹壊すぞ」

 脳が痺れるほど良い声だった。

 次の瞬間、男は上を向いた顎に10階建てのビルの屋上から降ってきたかかと落としを食らい、再び地面へ崩れ落ちる。
 アスファルトに後頭部を思い切り打ち付けた。痛みでひんいた目に飛び込んだのは、すらりと背の高い黒髪の青年。
 そこで、男の意識は途絶えた。

「酷いよガルガ。喫煙歴なし、アルコールはほどほど、適度な運動もしてる健康的な若いヒューマン! こんなご馳走めったにないじゃん!」
「自分で言うか普通? というか、拘束もしないで放置すんなよ、危ねぇな」
「あは、忘れてた~」

 ガルガと呼ばれたぶっきらぼうな口調の青年は、カーキ色の厚手のブルゾンから手錠を取り出す。
 泡を吹いて気絶した男の両手首を後ろで拘束して、大通りの照明が届く場所へどけた。これで影の世界へ逃げられることもないだろう。
 それよりも、だ。