SIRIUS(1/3)
<Track 1. 幕が上がる>
歩行者信号の色が変わるのを待ち呆けていた一人の青年が、街頭の屋外ディスプレイ広告から流れる聞き慣れた歌声に気づき、思わず頭上を見上げた。
新宿のど真ん中、十五秒のCMで一日十万円。リリースの二週間前から打っているとすれば広告費は百万円越え。
そう言えばここに来るまでの駅中にも大々的に壁面広告が展開されていた。
スマホCMの方が見る機会が多い時代で費用対効果がはたしていかほどの物なのか彼には想像できなかったが、端的に「こんなに金をかけられるくらいこの人たちは売れている」という印象を持たせることが本来の目的なのだろうと悟った。
歩行者信号が青に変わる。それでも青年はディスプレイ広告に映る一人の男から目が離せなかった。
見慣れた横顔、耳馴染みのあるファルセット。
つい三か月前まで共に活動していた同期が、明日CDデビューする。
共にデビュー前の入所歴最長を更新してきた戦友とも呼べる彼の口からその話を直接聞かされたのは、事務所から各メディアに向けて公式の告知があった三日後だった。
単刀直入に「おめでとう」と言うと、隠しきれない喜びを滲ませた申し訳なさそうな顔で「類人に言いづらくて。ずっと隠しててごめん」と謝られた。
デビュー前の新星アイドルの顔に拳をめり込ませなかったのはプロ意識のおかげだ。そこは素直に「ありがとう」だけでいいだろうが。
それ以来二人はぎくしゃくしてしまい、まともに顔を合わせていない。そもそもあっちがプロモーションの取材やら撮影やらで忙しすぎる。
街頭広告で久々に顔を見た戦友は、まるで知らない人のようにキラキラしていた。
『キラキラ』なんて陳腐な表現だが、それ以外に見合った言葉が見当たらない。
海外で活動する有名作曲家から提供されたデビュー曲は地上波ゴールデンタイムのドラマ主題歌で、メンバーの一人が初主演を飾るらしい。さらに両A面のもう一曲は国民的洋菓子メーカーとのCMタイアップときた。
一生に一度のデビューには最高にお誂え向きな仕事だ。とても『キラキラ』している。
一方で類人は、今日も今日とて実家とレッスン場を電車で往復し、休憩室で日課である公式ブログの原稿三百文字程度をまとめるといういつもの日常を生きる。明日は先輩の主演舞台の通し稽古だ。見せ場は幕間の口上だけで、去年まで務めていた台詞のある役は勢いのある後輩が担当することになった。
あの街頭広告と自分を比べることすら烏滸がましい。
人が行き交う道のど真ん中でぽつんと立呆ける青年を、周囲の歩行者は邪魔そうに避けて歩く。
たまに肩をぶつけられたりしたが、彼は金縛りにあったようにその場から動けずにいた。
羨ましいとか、妬ましいとか、そういう類の感情ではない。
ただ空虚だった。
入所十一年目、長くなるだけで中身の伴わないの芸歴、来春に控える大学の卒業、就活に勤しむ同級生、あなたの好きにしなさいと言ってくれる両親。
あてがわれた環境で自分がどうすべきなのか、ずっと答えを見い出せずにいる。
すると、立ち竦む青年の手を誰かが取った。
急に戻ってきた意識が目の前の人物を認識するまで数秒の誤差が出る。
天使のようだった。
天使を実際に見たことはないが、美しい天使を描きなさいと言われた美大生の十人中四人くらいはこういう造形で描きそうだな、と思うような優れた容姿だ。
青年よりも年下のわりには十センチも高い位置にあるしゅっとした顎、カラコンじゃない天然物のマリンブルーの瞳、目鼻口のどれかが数ミリズレていただけで平凡な顔になっていたかもしれない奇跡の顔面比率。
「もう、類人さんってば。信号変わっちゃうよ?」
そう言って手を引いて歩き出した天使につれられて、四ノ宮類人は歩き出した。
そうだ、今から二人で一緒にレッスン場に向かうのだった。
これじゃあどちらが飼い主かわからないなと心の中でぼやきながら、類人はリードを握るような気持ちで繋がれた手に力を込めた。
四ノ宮類人は時価3000億円(仮)の犬を飼っている。
アメリカと日本のミックスで十七歳、身長190センチ、体重65キロ、毛並みは天然プラチナの大きな立ち耳。
天真爛漫で大らかな性格だがご主人第一主義の超高級忠犬。顔面力もかなり高い。
食費は自分で稼いで来るし散歩も一人で勝手に行けるが、高級料亭よりも類人と並んで食べる立ち食い蕎麦が好きだし、リードに繋がれていたとしても一緒に歩く散歩の方が嬉しくて、大きな尻尾がぶんぶんと揺れる。
好きな食べ物は肉、特技はダンス、嫌いなものはセクハラおやじと嫌味なプロデューサー、将来の夢は類人と一緒にCDデビュー。
この時価3000億円(仮)の犬は、ルーナ・月・ハミルと言う。日本の芸能事務所で夢に踊る、類人と同じアイドルの卵だ。